先週は第5章までCubadebateで公開されたカストロさんの回顧録La victoria estratégicaだが、今回は第1章に掲載されていたアレグリーア・デ・ピーオでの戦いを再現した図をゲバラの回顧録も交えてみていきたい。

1956年12月2日の夜明けにグランマでキューバに上陸(ゲバラは座礁と記録している)後、農民の裏切りによりAlegría de Pío、アレグリーア・デ・ピーオという地域で敵から襲撃を受けたのは何かしら皮肉を感じられる。
alegríaは英語で言うjoy喜び Píoは敬虔なという形容詞だが、遭えて訳すと「信仰の悦び(w?」といったところか
12月5日、上陸地点からオリエンテ州の南岸を歩き続け、空腹と疲労のなか野原で休憩をしている最中に、農村警備隊によるライフルと機関銃の掃射を浴びせられたのだった。
サトウキビ畑を140名の兵士が包囲し、ゲバラを含めたほかの何名かの遠征隊員も負傷した。このときのことをゲバラは日記に書いているのだが、この襲撃はチェが兵士として覚醒する契機でもあった
La sorpresa había sido demasiado grande, las balas demasiado nutridas. Almeida volvió a hacerse cargo de su grupo, en ese momento un compañero dejó una caja de balas casi a mis pies, se lo indiqué y el hombre me contestó con cara que recuerdo perfectamente, por la angustia que reflejaba, algo así como
襲撃はあまりにも大がかりだったし、銃弾は雨あられと降り注いでいた。アルメイダはふたたび彼のグループの指揮をとり始めた。その時一人の同志が私の足元に弾薬ケースを落としたので、そのことを教えると、彼は表情で私に応えた。その苦しい表情から、その顔がはっきりと思い出される。

«no es hora para cajas de balas», e inmediatamente siguió el camino del cañaveral (después murió asesinado por uno de los esbirros de Batista).
「弾薬ケースなんか拾っている暇はないさ」と言っている様でもあった。そしてすぐにサトウキビ畑の道に飛び込んでしまった。(彼はのちバティスタの捕吏に殺された。)

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Quizá ésa fue la primera vez que tuve planteado prácticamente ante mí el dilema de mi dedicación a la medicina oa mi deber de soldado revolucionario.
医学に身を捧げるか、それとも革命兵士としての務めをまっとうすべきか、
多分その時初めて僕はこのジレンマに苦しんだ。

Tenía delante una mochila de medicamentos y una caja de balas, las dos eran mucho peso para transportarlas juntas; tomé la caja de balas, dejando la mochila para cruzar el claro que me separaba de las cañas.
僕の前に置かれた背嚢には、たくさんの薬と弾薬ケースが詰まっている。
どちらもすごく重くて、両方入れていくことはできない。

僕は弾薬ケースを取り出し、あとはそこへ置いていった。

Pasajes de la guerra revolucionaria Alegría de Pío より

遠征隊員のメンバーはそれぞれ散り散りに敵の砲火から逃げ出した。
以下の図のように数名ずつの3つのグループに別れ、モンゴ・ペレス農場を目指した。
10la-victoria-estrategica-final3-580x403
以下は上の図の記号の解説
11a-victoria-estrategica-final2

1956年12月5日~20日まで、どこを彷徨ったかが描かれている
ヨット・グランマ号の遠征隊員らの走破ルート、
フィデル(赤)、ラウル(緑)とアルメイダ(茶色)のグループ
飛行機の記号は上から順に、
Hidro avión Catalina 水上飛行機カタリーナ
Bombardero B-26 爆撃機
avioneta小型飛行機 Beaver L-20
Fragataフリゲート艦F-1
Guarda Costa 海岸警備(船)GC-106

上記のバティスタ側の兵器はミリタリーに詳しい方は見れば分かると思うが、アメリカから支給されたんもの。
対空砲も当然ない遠征隊員は逃げるしかなかっただろうw

コマンダンテ・フィデル・カストロは農村出身のウニベルソ・サンチェスと医師のファウスティノ・ペレスと共に逃げた。武器はカストロのスナイパーライフルとサンチェスのライフルのみ。フィデルらのグループがモンゴ・ペレス農場に到着したのは12月16日、2日後には弟のラウルのグループとも合流した。兄貴のフィデルからいくつライフルを持っているかと聞かれてラウルは5つあると答える。するととフィデルは「こっちは2つだ。全部で7つになった。我々は戦いに勝ったぞ!」と歓喜の声をあげたそうだw。。。皆、唖然としたに違いない
ゲバラやカミーロ・シエンフエゴスら8名と合流したのは12月21日で上陸メンバーの82人中、16名が生き残った。この壊滅的な部隊の状況にも関わらず、カストロはこの革命には勝算があると判断したのだった。バティスタ側12000人のプロの軍人、そしてそのバックには軍産複合体のチート国家アメリカが支援していたにもかかわらず、カストロは揺るぎない自信と指導力をもって部下を鼓舞し指導力を発揮した。

La victoria estratégicaのAlegría de Píoの図などでキューバ上陸後の遠征隊員の戦いを見てきたが、何故、キューバ革命は成功したのか?カストロのカリスマ性だけでは説明がつかないだろう。
ここで私見を交えてその理由を3つ挙げるとするなら
一つ目は、彼らが「祖国か、死か」の気構えで戦っていた点だろう。よくカストロは演説の最後にPatria o Muerteという台詞で締めくくるが、死を覚悟した人間はそれこそ、単に命令に従っている軍隊の兵士に比べれば気構えが違うだろう。
2つ目は、この回顧録のテーマにもなっている戦略的勝利を勝ち取るための術を、カストロが心得ていた点が挙げられる。1例を挙げるなら、捕虜に対する寛大な扱いだが、この措置により体制側の兵士の心をつかんでいった。これはモンカダ兵営襲撃の反省から考えられた作戦だった。
3つ目は、 運 だろう。運も才能のうちとは言われるが、歴史の女神がカストロに味方したからこそ、キューバ革命が成功した。数多くの窮地を乗り越えることが出来たのも、この運という要素を抜きには語ることは出来ない。
以上大雑把に分析してみたが、実際に何が戦略的勝利の勝因だったかはカストロさんの回顧録が物語っていることだろう。まだ第5章までしか公開されていないので、続きを読むのだ楽しみだ。
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当時の爆撃機のB-26は第5章で紹介されていた
Bombardero Douglas B-26B/C Invader.


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