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原子力安全委員会によって作成された最終報告が発表された。

原発事故は「安全神話依存の結果」と政府事故調委員長 ロイター通信
畑村委員長は同日夕の記者会見で「安全神話に依存して推進してきた結果が今回の事故に見える」と強調した。

畑村委員長は「利便と危険のバランスを考えることが大事。危険を議論できる文化の醸成が日本は不十分だった」と事故発生を防げなかった風土の存在を指摘。報告書末尾の委員長所感で「政府を始めとした関係機関が継続的に調査・検証を行っていくことを強く希望する」と要望した。




畑村委員長の指摘は的を得ている。日本人はこういった有事を想定する能力に欠けている。しかし、問題はそれだけではない。私見ではあるが、風土の観点からこの問題を考えると、われわれ日本人の意識を根源から変える必要性を感じざるを得ない。不可抗力である自然の猛威に対して、われわれ日本人は畏敬の念をも抱いている。そこに西洋人が築いた原子力エネルギーを導入した。この原子力は人間の叡智が生み出したエネルギーであるが、同時に人間の傲り高さをも象徴している。それはヒトの手によって、然るべく徹底的に管理されなければならないのだ。

自然に対する考え方は、日本人と西洋人の間に大きな隔たりがある。彼ら西洋人は、自然をコントロールするべく、自然に対し闘うが、われわれ日本人は自然を畏れている。神聖不可侵の自然の猛威に真っ向から挑むことは恐れ多いことであると考えている人は多いのではないか。然るべき想定がなされなかったのは、東電らのご都合主義もあろうが、こうした日本人特有の風土にも問題があるように思える。

余談だが、ラテンアメリカの解放者、平定者であるシモン・ボリーバルの有名な一句に次のようなものがある。

"Si la naturaleza se opone, lucharemos contra ella y haremos que nos obedezca"
-El Pacificador Simón Bolívar
もし、自然がわれらに反対するなら、われらは自然と闘い、われらに従わせるであろう。
-平定者 シモン・ボリーバル


話が脱線するので彼のバイオグラフィーはwikipediaを参照してほしい。ベネズエラ独立運動の項で、1811年にベネズエラでカラカスの人口5万のうち1万人が亡くなる大震災が発生したことが記されている。この際、ボリーバルに賛同する側の地域は壊滅的な被害を受け、敵対する勢力の被害は比較的軽かった。王党派の聖職者はフェルナンド国王に背いた天罰じゃ!と叫び民衆の不安を煽った。こうして地震は、第一次共和制の崩壊に拍車をかけることになったが、指導者であるボリーバルは勇ましくもこの言葉を発したのだ。

西洋人の皆が皆、ボリーバルのような考え方を持っているかと言えば、それは正確ではないだろう。しかし、僕はボリーバルの勇ましさに感銘を受ける一方、私たち一般的な日本人の価値観との相違をも、この名句から感じさせられる。

日本には日本独自の風土がある。この原発事故の想定不足は、自然に対する価値観だけでなく、日本の封建的な風土にも拠るところが大きいに違いない。東電という大企業が考えることを絶対視し、それを規制する機関すら存在しなかった事実は西洋人の感覚からは理解できないことだろう。こないだ報道された、鉛のカバーの一件もそうだ。下請けは、大企業に頭が上がらず自らの身を危険にさらす。それが大企業の思うつぼだとしても、この従属関係に甘んじているのだ。


こんな事態が起こる前、僕は原子力発電所についてはむしろテロリストによる攻撃のことを危惧していた。関西には、テロ国家に臨む日本海沿岸に原発銀座が存在する。そのうちのいずれかにテロを仕掛けられたらひとたまりもないだろう。しかし去年wikileaksが暴露したように、この脅威に対してもわれわれ日本人は、無関心でいるのだ。
2011.05.25 テロから原発を護れ!~Wkileaksの米外交公電が安全保障の欠陥を語る~


波音を立てることを極度に嫌う風土が日本に存在する。皮肉にもそういった価値観が、大津波によって打ち壊されたようだが、問題の元凶は、われわれの風土に存在することを忘れてはいけない。
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