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11日土曜に天満橋のエル・大阪という施設で、キューバの日系移民コミュニティの会長をされている宮澤昇さんのお話を聞いてきました。この日系移民コミュニティはハバナ南に位置する”イスラ・デラ・フベントゥ Isla de la Juventud”、すなわち”青年の島”にあります。



キューバへの日本人移住は1908年に始まり、ピノス島へは26年から30年代後半の移住が多かったそうです。20世紀初頭、ピノス島は米国人がほとんどの土地を所有していたという。本土よりピノス島ではグレープフルーツを早い時期に収穫できるので、本土との気候差を利用し彼らは儲けていたという。一方、日本人は借地で細々と野菜や小さなフルーツを栽培されていたそうです。日本人移民の方々苦労されていたことは想像に難くありませんが、苦難を乗り越えるため、松島(ピノス島)で1933年に相互扶助を目的とし「松島日本人産業組合」が宮澤さんの叔父さんによって設立されました。

宮澤さんは苦難の歴史についてはあまり多くを語られませんでしたが、伝記などに興味がある方は竹内 憲治さんの「花と革命―キューバ革命を生きた日本人園芸家の手記 (1977年)」を読まれることを強くお勧めします。園芸のお仕事をされていた竹内さんはピノス島ではなく、富豪のデユポンに気に入られバラデロにある彼の別荘で働かれていましたが、第二次世界大戦がはじまると事態は一変します。当時は他の中南米諸国がそうであったように、キューバも合衆国側につき、日本と敵対しました。こうして竹内さんは敵国民とみなされ、離れ島のピノス島のモデロ監獄へ収監されました。ピノス島(松島)の日本人コミュニティの方々も皆、モデロ監獄へ入れられ、日本人の収監者は350人にものぼったといいます。

今日は一昨日宮澤さんから聞いたキューバにおける日本人移民についてのお話を第二次世界大戦まで書いてみました。先人の方がキューバの地で歩まれた苦難の歴史について、興味があるのでまた時間が空いたときに大戦後から書いてみようと思います。


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