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私が去年のキューバ旅行で撮った写真が、NYタイムズのベストセラー「ハバナの夜」の訳本のカバー写真に採用された縁で著者のインタビューを聴いて原書を読んで、キューバで暗躍した組織犯罪について知ることが出来た。
Malecón, Havana
ブログの旅行記で掲載した写真が出版社の方の目に留まり、カバー写真にしたいというオファーを頂いたので、当然マフィアなんて撮影当時には頭の片隅にすらなかった。私の読んだUK版の原書の表紙ではショーガールと独裁者バティスタ、マフィアの大御所ランスキーによって構成されていて、一目見ただけで裏社会を描いた本だと分かる。
cover 18a
一方、日本語版のは月光が映えるライトアップされたマレコン通りで幻想的な雰囲気だが、一見マフィアとの関連性は薄いように思える。しかし、写真右部にはマフィアの歴史的会議が開催されたホテル・ナショナルがあり、さらにマフィアの後ろ盾だったバティスタの多大な資金投入で58年に建った旧ヒルトン・ホテルも確認できる。ヒルトンは革命政権によって接収され、現在はハバナ・リブレのネオンサインに照らされているが、当時はホテル・ナショナルなどと同様にカジノを保有し、キャバレーショーやナイトクラブもあった。旧ヒルトン・ホテルもマフィアが築いた歓楽地の下で商売が成り立っていたことがイングリッシュ氏のノンフィクション「ハバナの夜」で記されている。

「ハバナの夜」でなかでも興味深かったのは、ユダヤ系マフィアのランスキーが59年の革命後にこれは共産主義革命だと結論づけてハバナから脱出を図るシーン。信頼していた部下のアルマンド・ハイメ・カシエジェスと国外脱出しようとしたとき、彼が思いがけないことを言った。
「これは共産主義革命なんかじゃありません。フィデリスタの革命なのです。私はこの革命に残ります。フィデルの革命なのだから。」彼はランスキーから信頼されメンターとして慕っていたが、金より革命に心が動かされた。仕事を失ってまで、仕えるボスが不在で、カジノが閉鎖される革命政権のキューバに残る覚悟に胸が熱くなった。ランスキーは自分自身を否定されたような衝撃に驚きつつも、ホテル・ナショナルの庭のベンチに腰掛けながら少年期の体験を語り部下の説得を試みた。彼は12歳まで帝政ロシアに住んでいたが共産主義のロシア革命によって郷里を離れることを余儀なくされ、合衆国へ移り住んだ。実体験を基にキューバ革命は共産主義だと警告するランスキーだったが、彼の部下のハイメは「仮にそうだとしても、人民のための革命です。」と言い結局キューバに残ることになった。カストロさんの革命とマフィアの価値観の衝突をイングリッシュ氏はアルマンド・ハイメ・カシエジェスの証言を基に巧みに描写している。
nacional jardin
ホテル・ナショナルの庭は宿泊者以外にも利用可能で、マレコン通りを見渡すことが出来る。私は夕暮れ時に立ち寄り、椅子腰掛けピニャコラーダを一杯いただいた。カバーに採用された上掲載の写真とちょうど正反対の方面から撮影。
nacional hotel
ホテル・ナショナルは正面から見上げると迫力がある。最上階でマフィアのキューバにおける事業計画を話し合うハバナ会議が開催されたことは以前書いた。
2016.04.23 マフィアに支配されていたキューバの観光産業~ゴッドファーザーⅡで描かれたハバナ~

旅行中にマフィアに関連する写真がないか探していたら、まさにそのマフィアが写っている写真を発見!?
famoso.jpg
ホテル・ナショナルはちょっと立ち寄っただけだったが、有名人が利用したカクテルのバーの宣伝が目に留まり撮ったもの。ジョニーディップの下は名画ゴッドファーザーのコルレオーネ家のドンを演じたマーロン・ブランドで分かりやすいが、左の帽子をかぶり浮かなそうな顔をした白黒写真は実在のマフィアである。彼の名はアルバート・アナスタシアでマーダー・インクの副頭領で恐れられていたが、ハバナにおける利権衝突でこの世から葬られた。「ハバナの夜」でも記されているので詳しい話はそちらを参照して頂きたい。そして、見逃せないのがピニャコラーダの文字の左横にいる笑顔でナイスミドルといった感じの男性。彼は有名なマフィア、ラッキー・ルチアーノ。「ハバナの夜」ではルチアーノがランスキーに招かれ、祖国イタリアからハバナ入りするシーンから始まる。

ランスキーは資金と共に国外脱出したが、革命政権下でも裏ビジネスを続けようとするマフィアもいた。ランスキーに次ぎハバナで力があったマフィア、サント・トラフィカンテ・ジュニアは、革命が起きても所詮首がすげ代わるだけだろう思っていた。マフィアが独裁者と共に築き上げた悪徳の帝国の経済はすっかりマフィアの事業に浸っており、いまさら抜け出すことなど不可能だと考えていたのだ。しかし、カストロさんが率いるキューバ革命は金より正義を選んだ。

この経緯はヒストリーチャンネルのドキュメンタリーの予告動画で簡潔に語られている。革命政権に拒まれたトラフィカンテらマフィアはCIAに協力しカストロさんの暗殺を企てるが、成果をあげることは出来なかった。ケネディは多額の資金を投じマングース作戦というテロ活動でカストロさんの革命打倒を試みたが、ピッグズ湾侵攻同様に失敗に終わった。

それにしても、なぜ彼らは巨額の資金を投じてもカストロさんを暗殺できなかったのか?国際連合の総会に出席するためニューヨークに向かう飛行機で、カストロさんは記者が「あなたはいつも防弾チョッキを着ていると聞いていますが」という問いに対し「私はモラルという名のチョッキを着てニューヨークにやって来た。これがあれば心強い。このチョッキがいつも私を護ってくれてきたんだ。」と返答されている。カストロさんが今日まで生存されて来られたのはこの“モラル”があったからではないかと私は思う。先に紹介したアルマンド・ハイメ・カシエジェスさんが、マフィアの大御所の下での身入りの良い仕事を拒み、革命政権下のキューバに残ったように、ときに人は金よりモラルを優先する。CIAはマフィアだけでなくカストロさんの元愛人にも暗殺を依頼したが、彼女は当時、旧ヒルトン・ホテルに司令部を構えられていたカストロさんの個室に潜入し銃口をカストロさんに向ける段階までいけたものの、良心からトリガーを引くことは出来なかった。

キューバ革命は結果的にソ連に近づくことになり、社会主義化したがマフィアやCIAはカストロさんが率いた革命の本質を見誤っていた点に、根本的な間違いがあったように私は思う。それはキューバ独立の使徒ホセ・マルティの時代からキューバ人が求めて来た人道主義に基づいた革命であったのだ。合衆国とキューバは国交正常化の道を歩んだ今日でも、キューバ革命の真髄を誤解している人は多い。「ハバナの夜」の著者もカストロさんを「ラ・エンガニャドーラ」(詐欺師)と描写している箇所が上記のハイメ氏の証言後にあるが、私はこのような記述は間違っていると思う。
まず文法的誤りがある。「ラ・エンガニャドーラ」は女性名詞であり、男性の詐欺師なら「ラ・エンガニャドール」となる。恐らくこれは、前記事でも紹介したミス・バルブーハスを著者のイングリッシュ氏が同書で紹介していたからこれと混同していたのだろう。たしかにバストを偽装した女性なら「ラ・エンガニャドーラ」となる。(詳細は前記事参照)。そして、カストロさんを詐欺師呼ばわりすること自体がそもそもの誤りである。冷戦下で生き残るために巧みな戦術を国際社会で行使されたが、民を欺くことは決してなかった。

「ハバナの夜」のカバー写真になったマレコン通りの写真を撮ったあと、私はホテル・ナショナルが建つベダード地区方面へマレコン通り沿いを歩いて行ったが、途中で片足を失われた方が介護の方と共に早朝のマレコン通りで涼まれたり、腕立て伏せをされている方に出会った。キューバは経済的に貧しい国だが、福祉国家でもあり国民皆が等しく医療・教育の機会に授かっている。革命の本質である人道主義が今日まで貫かれているからこそ、今でも多くのキューバ人が革命政権を支持するのだろう。



悪徳と退廃の歓楽地だったキューバの首都ハバナ~誑かす女LA ENGAÑADORA~
合衆国との国交正常化により観光産業が成長しているキューバ。下記のグランマ紙によると、6月13日の時点で既に海外から200万人の観光客が入国したと観光省が発表した。この数字は昨年より27日早い記録更新となった。キューバの観光客は主に欧米人で、カナダやドイツ、イギリス、合衆国、フランス、イタリア、メキシコ、アルゼンチンが主流層だ。

去年、私がキューバへ行った際は、GWにもかかわらず日本人を見かけたのは空港や朝食を共にした方を除けば1度だけだった。現地で話した観光客はオランダやドイツ、イギリスの方だった。サンタ・クララのゲバラ霊廟ではアルゼンチン訛りの西語を話す団体客もいらっしゃっていた。

余談だがわが国も昨今、海外から注目を集め、下記の観光局の資料によると先月の訪日観光客数は前年同月比15.3%増の189万4千人だったという。

しかし、”観光”といっても、その在り方は実に多様だ。先週は善意通訳者(グッドウィル・ガイド)に登録し、ボランティアでガイドに挑戦したが、オーストラリアからいらっしゃったゲストから糠漬け教室に参加したいというご要望を受け、ご案内した。漬物屋さんの説明を通訳するために江口先生のNHKテキストで予習し、京都の三大漬物を説明するためにパワーポイントでスライドを作成してガイドに挑んだ。漬物教室に参加された動機を尋ねると、「手ごろな価格で料理教室を体験したかった」とのことだったが、最後にはすっかり漬物の虜になられ5千円分も漬物を買われた。このような体験の予習と実践を通じ私自身も奥ゆかしい日本文化の一つ再発見できた。金閣寺や伏見稲荷大社といった人気観光地も素晴らしいが、例えばぬか床に野菜を漬ける体験をされた今回のゲストのように過去に京都を訪問された方は、もう一歩踏み込んだ体験を期待される。リピーターを呼び込むためには、ガイドする側も鍛錬が必要だが、これは日本に限った話ではなく同様に観光産業が成長しているキューバにも言えることだろう。

さて、キューバに話を戻しますが革命前のハバナは異常な観光ブームに沸いていたという。昨日FBページで紹介した「ハバナの夜 」(T.J.イングリッシュ:著)の原書版を読了したが、バティスタ独裁政権の庇護のもとで、マフィアが巣食う悪徳帝国と化した50年代の首都ハバナの退廃ぶりが描かれている。隣国の合衆国から観光客を集めたが、彼らがキューバに期待するのは今日のような健全なものではなく、ギャンブルやショーガールに歓楽を求めた。海外観光客をターゲットとした賭博や性を食い物にする産業がマフィアの投資資金でかつてない規模で繁栄した。なかでも悪名高かったのは中華街にあった上海シアターであり、このことは以前の記事でも触れた。そこには尊厳はなく、ただ悪徳と退廃があるのみであった。
2016.04.23 マフィアに支配されていたキューバの観光産業~ゴッドファーザーⅡで描かれたハバナ~


革命前のハバナの様子は上掲載の動画から閲覧できる。冒頭では52年のバティスタのクーデター直後の映像が流れ、続いて享楽に耽る欧米人、そして傘を片手にトップレス姿で通りを歩く女性。彼女の衝撃的な姿の後に何人か見物人が続くが、映像ではその中に幼い子供の姿も確認できる。

彼女の正体はT.J.イングリッシュの「ハバナの夜」で明らかにされている。私が読んだ原書はイギリス版でタイトルがHavana Mobとなっているが、同内容だと思う。これの第二部LA ENGAÑADORA(誑かす女)第10章を読んで知ったのだが、彼女の名はBubbles Darlene(本名Virginia Lachinia)で合衆国ミネソタ出身、旧市街のセビージャ・ビルトモア・ホテルのナイトクラブで働くパフォーマーだそうだ。プラド通り面するこのホテルはハバナで強大な影響力を持ったマフィア、サント・トラフィカンテJrとつながりがあった。


バティスタのクーデターが起きた1年後の53年、傘を片手に黒のパンツと透明のレインコートのみ身につけた合衆国人が、ハバナのプラド通りに突如現れ、首都中心部の大通りを闊歩した。プラド通りは先月、シャネルのファッションショーが行われた際にFBでも紹介したが、早朝のマレコン通りを撮影する際にここを通って行った。警察官の方が早朝から警邏され、地元の方が通りを清掃されていたが、暗くても安心して歩ける通りだ。

ほぼ裸体姿の女は早速、警察官から職務質問を受ける。すると彼女は「私は誰も欺きたくないの」と応え、当時流行したチャチャチャの「ラ・エンガニャドーラLA ENGAÑADORA(誑かす女)」を口ずさんだ。こうして彼女はミス・バルブーハスMISS BURBUJASと呼ばれ世間の注目を集めた。BURBUJAは泡の意味だがMISS BURBUJASを邦訳するのも妙なので、以下ではミス・バルブーハスとする。

ミス・バルブーハスはこの異常な行動の動機について後に語ったことによると、ラジオでLA ENGAÑADORA(誑かす女)を聴いた彼女は、その歌詞に納得がいかなかったという。いわゆるナイス・ボディに見せるために、女性は詰め物をしたりして細工を施すことがあるが、流行歌のLA ENGAÑADORA(誑かす女)の歌詞はそのような女性を取り上げていた。ミス・バルブーハスは自身がそんな小細工をしていないことを証明するために、常軌を逸する行動に出たという。

「プラドとネプトゥーノ通りの交差辺りを一人の女が行った...A Prado y Neptuno iba una Chiquita..」の歌詞で始まるエンリケ・ホーリンのLA ENGAÑADORA(誑かす女)。

結局、ミス・バルブーハスは50ドルの罰金が科せられ、放免された。その日の夜、彼女のショーには多くの男がやって来たという。結局いい宣伝になったということだ。ミス・バルブーハスとスペイン語で呼ばれたのも親しみを込めてなのだろう。

彼女は独自の芸術的感覚というか哲学を持っていたようだ。しかし、公共の秩序を乱す身勝手な行動は、プラド通りを愛する地元の人の尊厳を傷つけたのではないかと思う。前掲載の動画で彼女の後をついていった子供の親御さんはどう思っただろうか。

ミス・バルブーハスは、当時のキューバの退廃ぶりを後世に伝えるが、もちろんこれは氷山の一角に過ぎないし、彼女に悪意があったとも思えない。しかしT.J.イングリッシュの「ハバナの夜」の同章では、あらゆる卑しい事業が行われた様が描かれている。このような合衆国人による事態に耐えかねたキューバ人が革命を支持したことは想像に難くない。
 先週、モハメド・アリが亡くなられた際、SNSのニュースフィールドに流れて来た彼の格言が目に留まった。「危険に挑む勇気がないものは、人生において何も成し遂げられない。(He who is no courageous enough to take risks will accomplish nothing in life.)」。モハメド・アリはゲバラやカストロさん同様、ヒトをひきつける何かを持っている。人々は彼らをカリスマと呼ぶ。

 キューバのメディアCubadebateではラウル・カストロ国家評議会議長が哀悼の意を表されたニュースとともに、96年にモハメド・アリがカストロさん(フィデル・カストロ前国家評議会議長)とハバナで会われた際の写真、動画が掲載されていた。アリはいわゆる「リングの外での闘い」でも有名で、カストロさん同様に特に60年代のメディアの注目をあつめた。両者は国家、人種の尊厳のために闘い、合衆国政府と対峙し、巨大権力に屈することなく信念を貫いた。
VII Cumbre del Caribe recuerda a Muhammad Ali, el amigo de Fidel (+ Fotos y Video)


 動画はアリがハバナのホテルで自慢の手品を披露するシーン。赤いハンカチが宙に舞ったかと思いきや、アリの手のひらの中に華麗に消え去った。これにはカストロさんも感動され拍手を送られた。「どこに隠したんだい?」と質問されるカストロさんに対し、アリはあっさりマジックのネタ証しをする。手品とはいえヒトを欺くことは彼が信仰するイスラム教の教義に反するからだ。指に似せたゴム製の指サックの中にハンカチが隠されたことを知ったカストロさんは、皆の前でアリの手品を実践し披露された。これをグアジャベラを着られているアリの友人であるキューバの金メダリストのボクサー、ステファンソンが優しく見守られている。

 この動画で紹介されたアリのキューバ訪問は50万ドル相当の医薬品を寄付する慈善事業を目的に行われた。訪問された96年は悪名高いヘルムズ・バートン法が合衆国によって発行された年でもあった。ソ連崩壊後、同盟諸国を失ったキューバの危機につけ込み、合衆国は経済封鎖によって革命政権打倒をこころみたが、96年に悪法によってキューバをさらなる物資不足へ追い込んだ。アリのキューバへの支援は心強かったに違いない。

 モハメド・アリのキューバ訪問の詳細についてはエスクァイア誌のGay Talese氏による”Boxing Fidel”に詳述されている。どうやらカストロさんと会われたアリは一切言葉を発せられなかったようだ。先述の持病と会談が夜に行われたためだろうか、アリはカストロさんの前で目を閉じ眠ってしまう。カストロさんも事情を心得られていたのだろう、アリが一切話さないにもかかわらず、そのことには触れられなかった。代わりにアリの奥さんに彼らの住まいのミシガンについて話されていた会話が取材記事に記されている。アリの友人であるステファンソンは「アリ、どうして黙ってるんだい」と英語で彼に耳打ちされたが、伝説のボクサーは伝説の革命家を前に黙したままであった。

 アリが沈黙を保った理由は上記事でも定かにされていないが、彼が遺した言葉に次のようなものがある。「良い答えが思い浮かばない時は、沈黙は金なり("Silence is golden when you can't think of a good answer."」。アリは9代の合衆国大統領やCIA,マフィアらに屈せず今日まで生き延びて来たカストロさんを敬服されていたという。敬愛するキューバの指導者を前にしたからこそ、相応しい言葉が見つからず黙してしまったのではないか、私はそう思うのだ。

 他の動画クリップではアリとカストロさんが互いの拳を受け止め合われているシーンが紹介されている。アリとカストロさんはともに雄弁なカリスマでヒトをひきつけて来られたが、尊敬しあっている両者の間では拳を交わすだけで十分だったのかもしれない。

 別れ際、カストロさんはアリの大事な手品の小道具である指サックを返してないことに気づかれる。返そうとされるカストロさんに、同席されていたアリの写真家、ハワード・ビンガムは「アリはあなたに持っていていただきたいと思っています。」と言い残して行かれた。カストロさんはモハメド・アリの一行を見送り、残されたアリの手品の小道具を面白そうに眺められ、ポケットにしまわれた。 

 カストロさんに託された小道具でアリは多くのヒトを虜にされて来た。「これからも世界中の注目の的であってくださいね。」という想いが込められていたのではないかと私は思う。

 96年のキューバ訪問から20年が経った今年の6月3日にモハメド・アリは74歳で亡くなられた。20年前当時のカストロさんと同じぐらいのご年齢で他界されたと思うと、彼の死が惜しまれる。数多くの著名人が哀悼の意を表されたが、カストロさんもきっと彼の死を悼まれたことだろう。

ゲバラがそうであるようにカリスマはいつまでも人々の心の中に生き続ける。アリがキューバ訪問した翌年の97年にゲバラの遺骨がキューバに返された際に、カストロさんはサンタ・クララで行われた演説で次のように述べられた。
”戦士は息絶えても、思想は絶えることはありません。(...)現在、チェはイゲラ村にはいません。いまやチェは守るべき正義があるあらゆる所にいるのです。”

 モハメド・アリはこれからも人々の心の中で生き続ける。

去年の5月の連休のキューバ旅行で撮ったカバーニャ要塞の写真が、今月の卓上カレンダーの写真として机上にあるのですが、見ていると旅の思い出がよみがえってきます。エア・カナダのフォトコンテストに応募し、4月のカレンダー賞を頂いたものです。

第4回 エア・カナダ フォトコンテスト2015受賞作品発表

サンタクララのゲバラ霊廟を訪れ、ハバナへ帰ってきた日に訪れた夜のカバーニャ要塞の城門。カバーニャは既に訪れていたのですが、カニョアソと呼ばれる大砲の儀式はまだ観ていませんでした。晩飯食べる以外に特に旧市街地でやることもなかったので、タクシーをつかまえて湾を挟んで対岸のカバーニャへ。
A102.jpg

タクシーで城内へは入れませんが、馬車に乗り換えることは可能です。お高そうですが。
A101.jpg

ちょうど日没後の夜闇が浮かび上がってくる頃合いに、城門前に着きました。ライトアップで幻想的な雰囲気なのですが、やはり観光客が多いですね。
Entrada del Fortaleza de San Carlos de La Cabaña
大砲の儀式までの時間を利用し、人馬がいない頃合いを見計らって撮ったのが上掲載のカレンダー写真です。スペイン統治下時代のコスチュームの左の兵隊さんの遠くを見つめる眼差しが良いですね。

写真を撮った時はエア・カナダの写真コンテストすら知らなかったので、まさかカレンダーになろうとは思ってもみなかったのですが、良い条件で撮ることが出来ました。左の門兵さんへの光の当たり具合が特に気に入っています。以前の旅行記でも書きましたが、18世紀にカルロス三世によって建てられたサン・カルロス・デ・ラ・カバーニャ要塞。きっと数多くの歴史ドラマを見てきたことでしょう。

このカバーニャ要塞の城門は1959年1月3日の夜、初めて首都へ入城した革命軍司令官チェ・ゲバラをも迎えました。この時の様子はPaco Ignacio Taibo IIのErnesto Guevara, también conocido como el Che(邦題:「エルネスト・チェ・ゲバラ伝」、訳:後藤政子)で描かれています。三台の車でまっすぐ要塞へ向かったゲバラ。堀外から監視している革命軍の民兵から距離を置いて、要塞の前には衛兵が立っている。ゲバラはためらいを見せず直進し、カバーニャは無血開城されました。上記著者によって、この時のゲバラの心境が次のように描写されています。
¿Así es la victoria? ¿Un ingreso nocturno sin pena ni gloria a mitad de la noche en un cuartel cuyo jefe lo enmtrega antes de que se lo pidan?
「これが勝利なのか?勧告前から要塞の長官は降伏し、栄光も苦難もなく真夜中に入城することが?」
Paco Ignacio Taibo II ,Ernesto Guevara, también conocido como el Che (1996)

グランマ号でキューバ東部へ上陸後、主にシエラ・マエストラやエスカンブライなど山岳地帯を拠点に2年以上のゲリラ闘争を経てやっと辿り着いた首都ハバナ。異国の地で革命に身を投じ、従軍医から大都市解放を任される司令官へまで登り詰めたゲバラはこの時、ちょうど30歳。カバーニャ要塞を解放し、3000もの兵を預かることになったゲバラは重責を改めて感じたことでしょう。
A105.jpg
カバーニャ要塞からはハバナ旧市街地の夜景も一望できます。初めて目にするキューバの首都の夜景を前にゲバラは何を思ったのだろうか。


先日はブログでバティスタの顧問だった悪名高いギャング、マイヤー・ランスキーのご子息がキューバに補償を求めているニュースをとりあげました。今日はゴッドファーザーⅡで描かれたハバナのシーンについて、先日の記事で触れたノンフィクション作家T.J. English氏へのインタビューを題材に書いてみようと思います。
2016.04.19 伝説のギャングのご子息がキューバ政府に補償を請求!?~独裁者バティスタの顧問を務めたマイヤー・ランスキーのホテル・リビエラ~

2009年に行われた上掲載のフィラデルフィアのラジオ番組のトークショーのインタビューに応えられているT.J. English氏は著書Havana Nocturne(ハバナ・ノクターン)で、マフィアがいかに富を築き、革命によってそれを失ったかを記されました。

インタビューの冒頭では作家の紹介後、ゴッドファーザーⅡのハバナのシーンの音声クリップが紹介されています。マイヤー・ランスキーが基になったハイマン・ロスが、ホテルのバルコニーで催されたお誕生日会の場で、ハバナでの事業計画について同胞に打ち明けている場面です。彼らの経営するホテルはラス・ベガスのよりも規模が大きく豪華で、キューバ政府からは資金提供も受けていると。「政府と真の信頼関係」をキューバ政府との間に築いたことを高らかに宣言しています。

T.J. English氏の解説によるとこのシーンは実際に1946年に行われた合衆国のマフィアの集い「ハバナ会議」のオマージュだという。ゴッドファーザーⅡはニューヨークのリトル・イタリーの描写も含め好きな映画の一つです。このシーンも何度か観ていますが、初めて知りました。

映画冒頭で議員とラス・ベガスのライセンス料金を巡って交渉が決裂するシーン。Movie Clipより。ハバナのシーンは残念ながらMovie Clipにありませんでした。

キューバはハリウッド映画の影響もあって、欧米からの観光客で賑っていたのですが、その観光ブームを後押ししたのはかつてない規模でのマフィアの投資資金。興味深いのはT.J. English氏によると、観光客はセックスやギャンブルだけでなく、革命が迫っているスリルをも楽しんでいたという。卑しい娯楽に溺れていた観光客にとって、カストロさんの革命運動はただの刺激的なエンターテイメントでしかなかったということですね。欧米人が楽しむ歓楽街と化したハバナから独裁者とマフィアは大儲けし、華やかなキャバレーやカジノの片隅では搾取構造に苦しむキューバ人が貧困に苦しんでいました。

ゴッドファーザーⅡに戻りますが、主人公マイケルからハバナのガイドを頼まれた弟フレッドが合衆国議員をエキゾチックなセックスショーに案内するシーンがあります。弟フレッドの裏切りが発覚する重要な場面でもありますが、スーパーマンと呼ばれる巨漢が囚われた可憐な少女の前に立ちはだかり、異常なサイズのモノをさらけ出す強烈な場面で印象に残っている人も多いでしょう。インタビューで話題になっていますが、T.J. English氏によると、常軌を逸したあのようなショーも実際に行われていたそうです。ハバナの中華街にあった上海劇場では、あのような倒錯した性的な見世物が行われていて、観光客に人気だったようです。バティスタとマフィアによって築かれた歓楽の帝国は弱者を食い物にして、欧米からの観光客にこのような倒錯した娯楽まで提供していたんですね。

このような状況がいかに革命の火付け役になったかについて、T.J. English氏は著書ハバナ・ノクターンで重要なポイントとして取り上げられているという。独裁者による搾取構造にキューバ人は憤り、革命へと駆り立てたわけですが、マフィアのそれはまさに悪の象徴だったわけですね。興味深いのでまた時間があるときにT.J. English氏の著書ハバナ・ノクターンも読んでみようと思います。

バティスタと共に卑しい事業を行っていたのは、合衆国のマフィアだけではありませんでした。ハバナ生まれのホセ・ミゲル・バトル・シニアもバティスタと共謀し、カジノからの収益の恩恵に授かっていたという。しかし、カストロさんの革命によって亡命を余儀なくされ、後に革命政権打倒のためにピッグズ湾侵攻に参加しました。

T.J. English氏が刊行を予定されているThe Corporationはこのキューバ人マフィアの勃興を描かれているのですが、ハリウッド映画化されるようです。主演はベニチオ・デル・トロ。ハリウッドのゲバラ映画も出演されましたが、あのゲバラ二部作は正直好きになれませんね。今回の役柄のほうがお似合いかもしれません。また、この新作の情報があったらブログでお伝えしますね。

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